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奈良達雄論序説

針生一郎

わたしは1952年に美術批評に乗りだして以来、戦争末期に戦争と無関係な自画像や風景画ばかりならべて、抵抗の姿勢を示したく新人画会〉のメンバーを中核とする〈自由美術〉が、公募団体展では唯一芸術運動の気風を保つとして親しくしてきた。ところが1963年、その〈自由美術〉から芸術派が運動派と離別する形で〈主体美術〉が分裂し、しかもわたしがもっとも信頼する麻生三郎、小野里利信、小山田二郎、浜田知明らは、どちらにも残らずその前後に無所属となった。一方、わたしが上京以来〈夜の会〉などで影響を受けた岡本太郎は、55年二科展に外部から有望な作家を大挙リクルートしたが、東郷青児支配の大勢は変わらないことに失望したのか、61年にはひとり二科展を退会した。こうして、あらゆる公募団体展は芸術運動とは無縁で、生活上の必要から集まった同業組合か様式会社だから、わたしは今後一切見ないという原則を以来自分に課したのである。もっとも、わたしは「公募団体を憎んで人を憎まず」と冗談半分につけ加えて、公募団体所属でも注目する作家の個展・グループ展には、見に行く余地を残しておいた。

ところが1960年代末、前衛芸術はミニマル・アートとコンセプチュアル・アートという、両極の袋小路に入って国際的にゆきづまり、日本ではイメージとオブジェといった西洋風二元論をこえて、物質と人間の直感的な出会いをそのまま作品にするという、在日の李禹煥の理論のもとに組織されたくもの派〉が、東野芳明の提唱した〈反芸術〉の小刻みな変化に対し、タブラ・ラサ(白紙還元、盤面一掃)の作用をおよぼした。もともとわたし自身は、動き、光、大地などを新しいメディアとして芸術概念を一変させようとする「反芸術」に批判的で、一方〈もの派〉には芸術本来の人工性と虚構性を無視して、日本の伝統芸術と同様に自然に同化しすぎるのを疑問としたが、両方が激突して「前衛の終焉」とよばれる事態がおこったことは認めざるをえなかった。その上1970年代はじめ、東京国立近代美術館が竹橋に開館した記念に招待されて、西ドイツ美術批評の最長老ヴェルナー・ハフトマンが来日したとき、「今は芸術運動よりも、個別的な作家論に集中すべき時期だよ」とわたしに語ったのが深く印象に刻まれた。わたしも「退役批評家」などと自称して、新人作家の発見よりも、ハフトマンがクレー論を書きあげたように、既知の代表的作家の論考を深化する方が大事だと考え、画廊の個展・グループ展に一番疎遠になったのが、この時期である。もっとも、〈もの派〉の衝撃を受けて近代日本美術史を自己流に総括した上、人工性と虚構性の再建にむかったいわゆる〈ポストもの派〉の方がわたしの興味を惹き、李禹煥自身も評論を発表しなくなってから、むしろユニークな造形的才能で国際的な評価を得たので、わたしの画廊まわりも数年後には再開された。

マクロタイム

1993

50F

アクリル、キャンバス

個人蔵

今年のはじめ、奈良達雄遺作画集を幸子未亡人から贈られたとき、わたしはこれほど力量のある画家を生前ほとんど知らなかったことにおどろき、その原因として以上述べてきたわたしの側の関心の推移に思いあたったのだ。ただ公募団体展は見ないという原則を立ててからも、独立展は昭和戦前の「在野」の主流で、しかも戦後は日本的フォーヴの旧独立調を乗りこえる新風続出と知っていたから、わたしもときどき現状をのぞき見したい誘惑に駆られたが、その都度ここでみずから節操を破ってはならぬと自制してきた。だから数年前、日本橋高島屋での〈独立美術創立80周年記念回顧展〉などには喜んで出かけ、わたしより年下なので東京芸大在学中から激勵と苦言を呈し、今や長老の一人らしい奥谷博の案内で会場をまわったが、奈良達雄はそこには選ばれていなかったようだ。わたしが独立展内での奈良の位置をやや具体的に知ったのは、遺作画集の冒頭に収められた松本英一郎の追悼記を読んだときだ。

実は1968-73年の短い期間、わたしは多摩美大で松本と同僚だったが、その間に全国の学園に波及した全共闘運動の余波で、ここでも学生によるバリケード封鎖が二度もおこった。とりわけ二度目の封鎖では、理事会・職員はキャンパスを逃亡して仮事務所も設けず、新入生すら放置したので、教授会が封鎖されない学園の一部で自主講座を続けながら、連日連夜の会議で対応策を協議した。松本はその討論の合い間に、制作の時間がないことをこぼしながら、「独立展も若い世代の突きあげがはげしく、やつらに負けちゃいかんと思うと、中堅世代も現状に安住してはいられないから、作風を一変するため毎日デッサンと思索ノートだけ続けている」とわたしにもらした。そして多摩美大当局が機動隊を導入してバリケード封鎖を解いた直後、松本は薄桃色のパイプを何層も積み重ね、その上に雲がつらなり、そその下に木立を何本か描いただけの、完全に抽象化された桜の花ざかりの風景を発表したのである。わたしはそれらの作品を圖版で見ただけだが、その画風激変とそこまでのデッサンと思索に深く感動した。そういう先輩として松本が奈良達雄の大胆な実験を評価した短い言葉は、奈良が生きていたら最高の保証ともなりえたことだろう。残念ながらそれは奈良への追悼の言葉として書かれ、その筆者もすでに故人となっている。

奈良達雄は創形美術学校在学中に独立美術展に入選し、1975年、同校の卒業制作で留学賞に選ばれて、同年中学以来同級の永関幸子と結婚し、翌年留学賞の賞金でヨーロッパに留学した。独立展以来の一貫した主題は人間像といっていいが、その人間像は極度にデフォルメされ解体されて、顔や肢体の具象と機械や建物の抽象形態が激突するようにモンタージュされる。さらに太陽の光に照らされるように黄色を主調とし、惑星がうかぶようにいくつかの円形をちりばめた宇宙空間に、無形のエネルギーが充満し葛藤する光景に達した。わたしは圖版を見ただけでは批評できないと、未亡人の案内で一日小平市の自宅を訪問し、奈良初期の代表作三百号など10点ほどならべてみせてもらった。その結果、これらの作品は装飾的でも観念的でもなく、共同体では欠かせないが近現代の美術では無視されてきた、宇宙的祭式の面から人間をとらえることをモチーフとしていると判断したが、かつて「泥の中を這いずりまわる」「苦行僧のような」と形容された独立調からみれば、エイリアンのように異質な作風であることは変わりない。友人たちによれば、とりわけ黄色の主調が独立美術では下卑た色と嫌われ、奈良はほとんど毎年のように受賞しながら、会員推挙はおくれて1994年、44歳のときで、その三年後にはガンのため永眠したのである。

だが、それらは独立美術という派閥内でしか通用しないランクにかかわることで、残された作品はそんな派閥の枠をとうにこえている。画集を仔細にみると、〈マッシュルーム〉シリーズに続く〈クレージー〉シリーズから、自意識の錯乱を手がかりとする人間の解体と物体との相互浸透が過激化し、〈マクロタイム〉シリーズに至って宇宙空間での漂流と相剋の世界が確立する。だが、その間に主導的なのは、力まかせの解体・再編によるエネルギー表出の人間讃歌ではなく、松本英一郎が「私が知覚しない無明の一画を彼の眼光で現出する息をのむような不思議な世界」と書いたような、言葉の届かない闇黒と沈黙と死への凝視である。その凝視から生まれる独特なユーモアこそ彼の本領なのに、これまでほとんど見のがされてきたし、逆に岡田多母著「へその話」に収められた、晩年の黄色ならぬ青色を主調とする幻想的イラストへの多くの讃辞も、ユーモアと通底することを見おとせば底の浅いものとなってしまう。

こうして奈良達雄は、独立美術内部の出世物語や生活のドラマをこえて、その遺作にはらまれた可能性が死後も観衆の再発見と再評価にゆだねられる、好個の実例である。わたしは今にして「公募団体を憎んで人を憎まず」という、自分の格率が正しかったことを確認する。奈良はむしろ府中美術館で遺作展のはじまる今こそ、観客の再評価にむかってひらかれた戸口に立ったばかりで、ここから無数の奈良独特の物語とドラマが観客それぞれによって自由に紡ぎ出されることを期待する。